【インタビュー】酒膳 眞榮田(後編)

2023年12月5日

女将 真栄田貞子さん

沖縄県那覇市久米。
琉球王国時代、明から職能集団が来琉し、交易の窓口となった街。
沖縄の文化発展に大きな影響を与えたこの地で、酒膳 眞榮田を営み、琉球料理保存協会理事としても活動する、女将 真栄田貞子さんから、2回にわたりお話をうかがいます。

前編は「琉球料理とその魅力を高める器」をテーマにお話をうかがいました。

>>>前編はこちら

後半は、琉球料理の歴史を紐解きながら、琉球国が残した遺産として世界遺産登録を視野に入れる真栄田さんの想いをお話しいただきます。

【後編】世界に誇るべき琉球料理
沖縄の食材はクスイムン(薬)

女将:沖縄には薬草がいっぱいあります。

私は沖縄の野菜は全部薬草だと思ってます。例えばナーベーラーは内臓からアルコールを早く外に出すと言われていますので、酒膳 眞榮田では、お客様がお酒を飲みすぎる前にナーベーラーンブシー(ナーベーラーはへちま。ンブシーは豆腐、野菜、豚肉を味噌で煮込む汁の多い煮物)をお出ししたりしています。

 

私は自然豊かなやんばるの羽地で育ちましたから、みんなひとつひとつクスイムンだと、祖父母から教えられてきました。

『イラブチャー(沖縄の代表的な食用魚。ブダイ)のシンジムン(煎じ汁。薬効を求めたスープ)は免疫を上げるよ』といった具合に、島の自然を生きる知恵として沖縄の子は幼い頃から聞いて育つのです。

そこに、中国、シンガポール周辺、南アジア、韓国などたくさんの国からの食文化が到来し、混ざりあっていきます。

例えば沖縄そばに入れるコーレーグース(赤唐辛子を泡盛に漬け込んだ調味料)ですが、「高麗の薬」という意味。体を温かくする高麗から来た薬です。

-シンジとは何ですか?

女将:シンジ料理は養生食です。

沖縄の料理は養生食に近く、本土の和食と少し違います。歴史も違いますし。

琉球料理は、風土と歴史のつながり、人々の知恵でできた、深い料理だと思います。

-羽地は沖縄の中でもお米が取れる場所ですね。

女将:そうです。羽地は水が豊富なので、田んぼができた。

とは言っても、お米は贅沢品ですから、なかなか庶民の口には入らなかったと思います。

約600年前、中国から冊封使(中国の皇帝の命を受け、琉球国王の冊封の儀式を行う事を目的に琉球に派遣された)の一行が数百名でやって来て、半年、長い時は1〜2年、琉球に滞在するのですから、おもてなしはさぞかし大変だったと思います。

 

王様がお迎えをするわけですから、みんなで力を合わせて作物を作って、お料理を作り、国をあげておもてなしをしていた。

想像するとすごい事をしていましたよね。だからこそ琉球は大切にされ、守られたのだと思います。

独自の進化を遂げた琉球料理

-琉球宮廷教理は、お魚と豚肉をすり身にした「シシかまぼこ」など数百年前から既に作られていたのが驚きです。

女将:琉球のかまぼこの歴史はあまり分かっていませんが、おそらく江戸から来たと思います。

江戸湾にたくさんの魚が揚がって、ほとんど捨てていたらしいのですが、もったいないからと、江戸の「八百膳(やおぜん)」という料理屋の六代目が発案し、かまぼこができたと本に書かれています。


沖縄では豚肉を指す「シシ(肉)」から、「シシかまぼこ」と言われ、魚のほかに豚肉も入っています。

包丁人たちが冊封使のおもてなしの為に、一生懸命、綺麗に美味しく、お出ししようと毎日努力していたのではないでしょうか。

 

ラフテーも、名称は中国語に由来し「羅火腿(ラフテー)」のことだと考えています。「火腿」とは、豚の腿(モモ)のことです。

モモと書くのに、沖縄では三枚肉(バラ肉)でラフテーを作っていて、中国料理のトンポーローに近い。

トンポーローは三枚肉を使いますし、味もラフテーに似ています。

なぜ「羅火腿(ラフテー)」が三枚肉を使用するようになったのか、今、研究中です。

みんなが思っているラフテーが実は豚のモモ肉だったのかもしれないと考えると、面白いですよね。

先の大戦で資料も焼かれ、復活まで40年以上の歳月が流れた

女将:尚順男爵(最後の琉球国王・尚泰王の四男。美食家として知られる)や那覇料亭 松山さんの古い書を開いて勉強しておりますが、なかなか文献がないのも現状です。

先の大戦時に、ほとんど失われてしまって、尚家(琉球の王族)の資料が少し残っている程度です。

私たちが今、こうやって琉球料理の歴史をほんの一部でも語ることができるのは、先人たちのおかげなのです。


琉球料理の歴史をたどる元となるものがない事から、新島正子先生(沖縄県出身、沖縄調理師専門学校を設立。
料理研究家。沖縄の郷土料理の体系化、テキスト化に尽力)が中心となり、料理人や文化人を集めて琉球料理の歴史を懸命に掘り起こしました。

東京と中国・福建省で尚家の御冠船料理(うかんしんりょうり。冊封使を歓待する料理)の資料が発見されました。

その僅かに残っている資料を頼りに、御冠船料理を再現したのが今から40〜45年ほど前だったと記憶しています。

琉球料理を体系化したくても資料が全くなく、大変
な苦労があったと新島正子先生の娘さんである安次富順子先生(琉球料理保存協会理事長)からもうかがいました。
ですから、再現できないお料理もたくさんあると思います。

-日本料理と琉球料理の違いを教えて下さい。

女将:まず琉球は、600年前から、中国から冊封使一行が来るようになり、彼らをもてなす為に、中国料理を琉球の包丁人が積極的に学びました。

琉球では手に入れられない食材もあり、少しずつ変わっていったのだと思います。

 

その後、ヤマト(沖縄の言葉で日本本土の意味)から薩摩を通じて、沖縄では採れない昆布などの食文化が入ってくるようになります。

中国が教えた料理、また薩摩を通して入ってきた江戸の料理、京都の料理がミックスされて、琉球の包丁人たちが知恵を絞った結果、伝統的な琉球料理になっていったと思います。

 

例えば日本料理は昆布だしと鰹だしの文化ですよね。

沖縄は豚だしと鰹だしが主で、複数のだしを合わせて使います。
日本料理は四季折り折りの華やかな色合いの料理、琉球料理は滋味深い養生料理といった具合に、色彩のトーンも違います。


私たちの琉球料理は、医食同源思想が元となり、病気にならないための食、病気になった後の食という、伝統的に養生食として沖縄に残っている料理だと思います。

医食同源を基本としたおもてなし料理に端を発した琉球料理と日本料理との違いは、歴史と風土の違い。

そういう意味で、日本料理と琉球料理は全く違う料理だと言っていいのではないでしょうか。

 

この土地に住んでいる人たちは、毎日少々苦しくても、医食同源を実践しながら明日に向かうという、琉球の民族的な思考を持っている。

あらがいながら一生懸命、明日に向かって生きるという姿が、形になって残ったのが、文化や器、琉球料理なのではないかと思います。

世界的音楽家ヨーヨー・マも絶賛した、料理とお酒の組み合わせ、そしてブルーゾーンである沖縄

女将:世界的なチェリストのヨーヨー・マさんが沖縄料理を召し上がった際のとても印象に残ってる言葉があります。

彼は30年ものの古酒を飲みながら、ラフテーを食べて、ひと言、「グッド・マッチング」とおっしゃいました。

「白味噌仕立てのラフテーと、豆腐、クーブイリチー、これだけあれば、あと1合飲めるぐらいのマッチングだ」とおっしゃいました。

「美味しい」とは言わずに、「グッド・マッチング」。

つまりヨーヨー・マさんは、色々な種類の食事と、大量に一気飲みしないお酒のたしなみ方を「なるほどこれがブルーゾーン(世界5大長寿地域。イタリア・サルデーニャ島、日本の沖縄、アメリカ・カリフォルニア州のロマリンダ、コスタリカのニコジャ半島、ギリシャのイカリア島に広げた)の沖縄だ」とおっしゃったんです。

 

しかし沖縄がブルーゾーンでなくなりつつあります。

私たちは養生食を食べ、毎日忙しいけれど大らかに生きて、長生きをしないといけないなと思っています。

琉球はおもてなしの精神

女将:以前、キャビンアテンダントさんがいらして『コラーゲンがたっぷりのテビチを食べたい。でもテビチは骨があって手づかみで食べなければならないので、お箸で食べられるようにしてもらえませんか。』とおっしゃいました。

今、眞榮田の焼きテビチは骨を抜いて、お箸で食べられるようにしています。

お一人お一人のためにというのが琉球の精神。100名来たら100名、200名来たら200名に綺麗におもてなしができるというのが琉球王国から受け継がれている精神、琉球のおもてなし文化だと思っていますので、伝統を守りつつ、進化できるよう日々努力ですね。

琉球料理の世界遺産登録も視野に入れていきたい。

女将:今、我々は沖縄県を通じて、琉球料理を世界遺産に登録したいと考えています。

ただし琉球料理が家庭や地域で作られているという証明ができないと登録ができません。

ですから沖縄県が主体となって県民あげて運動しないといけないと思っています。

 

琉球料理は、琉球国が残した遺産だと思っていますので、それを世界中に広めていきたい。

とても小さな琉球という国が、大国である明と正々堂々と渡り合い、さらにその大国が小さな琉球を大事にしていたのですから、我々もこの文化を大事にしないといけない。

沖縄県をあげて、運動してほしいです。